2013年05月15日

樺太アイヌの強制移住

久しぶりの更新になった。
今回は、近代のアイヌ史における、一つの大事件であった樺太アイヌの強制移住の問題について書く。

1875年の千島樺太交換条約の締結後、樺太南部に住んでいたアイヌのうち、841名ほどが北海道に移り住むことになった。
樺太アイヌはいったん宗谷(稚内市)に移り住み、その後、ツイシカリ(対雁。現在の江別市)に移住することになった。
この樺太アイヌの対雁への移住については、強制移住であったと北海道史、アイヌ史関係の本に説明されていることが多い。
しかし、この移住は強制ではなく合意の上であったという主張が最近散見されるようになっている。
本当にそうだったのかを検証してみたい。

その前にまず、樺太の地理や歴史について簡単にまとめておきたい。

樺太もしくはサハリンは、北海道の北側にある大きな島である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA

面積は7万6400平方キロ。約7万8千平方キロの北海道よりやや小さい。南北に長く、すぐ西側にはユーラシア大陸がある。大陸ともっとも近くなっている部分は、タタール海峡もしくは間宮海峡と呼ばれる。
面積は北海道に近い。アイヌやウィルタ(オロッコ)、ニブフ(ギリヤーク)などの先住民族が暮らしてきた島である。

カラフトはかつて「唐太」と書かれることもあった。またかつては「北蝦夷」と呼ばれることもあった。
ロシア語や英語ではサハリンと呼ばれ、現在ロシアの統治しているこの島は報道や出版物ではサハリンと呼ばれることが多い。
サハリン(Sakhalin)は、満洲語が語源とのこと。

カラフトの語源についてはさまざまな説がある。
カラフトは「唐人(からひと)」がなまったものであるという説もあるが、どうも後づけの説明のようである。

カラフトのことを北海道アイヌはカラプト(Karapto)と呼んでいて、ユカラ(英雄叙事詩)にもよく出てくる地名である。
カラフトという地名は日本語ではなく、おそらくアイヌ語である可能性が高そうである。
アイヌ語でカラプトという言い方がもともとあるのだからそれがもとになっていると考えた方がいいと思っている。

なお樺太を「カバフト」と読む人もいるが、「カラフト」に「樺太」という漢字を当てたことによりそれに引っ張られて「カバフト」という読み方が発生したと思われる。

樺太アイヌは、樺太のほかの民族や大陸の諸民族との接触の中でその影響を受けながら独自の文化を発展させた。もちろん北海道と断絶していたわけではなく、宗谷などには簡単に渡って交易などを行っていたという。
北海道アイヌとは、言葉や風習の違いが数多くあるが、まったく違うわけではないし、共通点もたくさんある。樺太の南端のノトロ岬から宗谷岬まで距離で約40キロで、天気のいい日には、宗谷から樺太が見えるほどである。
実際、宗谷から樺太に宗谷アイヌが渡って交易をしていたという話が伝わっているし、樺太アイヌが宗谷海峡を渡って宗谷に上陸し、さらに日本海沿いに南下し、函館まで行って交易していたという話も伝わっている。
宗谷アイヌの着物や鉢巻が現在も残されているが、これは樺太アイヌのものにそっくりなのである。これは宗谷アイヌが樺太アイヌから手に入れたか、製作法を習って自分たちで作ったかどちらかであろう。
なお、樺太アイヌが「エンチゥ(エンチウ)」という別民族だという主張があるが、その主張にはかなりの拡大解釈や創作が含まれていることはすでに書いた。
http://poronup.seesaa.net/article/266187030.html?1368625815

有名な民族楽器トンコリは「樺太アイヌの楽器」とされているが、江戸時代の記録では、宗谷(稚内)や紋別、常呂、斜里などでも演奏されていたことが分かっている。ただ、これはおそらく樺太から伝わったものではないかと思われる。しかし、近代になって北海道のこれらの地域での製作法や演奏法は伝承・記録されずに消滅してしまったようである。
戦後北海道に移住した樺太アイヌの中にトンコリの伝承者がいて、その人たちの演奏法が録音や文献に残されていたり、その樺太アイヌの伝承者から習った人がさらにそれを人に教え、現在に伝わっている。現在は北海道各地もしくは本州でもトンコリの演奏活動をしている人が多数いる。ミュージシャンのOKI(加納オキ)がトンコリの演奏をベースにさまざまな音楽を創作して活動していることが知られている。なおOKIは樺太ではなく、旭川をルーツに持つ人である。

さて、樺太はおもに3民族雑居の地であったが、江戸時代には和人が樺太に渡り交易をしていたし、シベリアを征服したロシア人も次第に南下し、おもに樺太北部に次第に進出し勢力を拡大していった。
さて、幕末に日本とロシアが話し合って国境を確定することになった。1855(安政元)年の日露通好条約である。
樺太についてはいずれの国家にも所属せず、諸民族雑居の地とすることになった。

千島(クリル)列島については、クナシリ島とウルップ島の間に国境線を定め、南千島のクナシリ(国後)、エトロフ(択捉)、シコタン(色丹)、ハボマイ(歯舞)諸島については、日本の領土ということになった。
もちろんこの国境についてはそこに住んでいた住民であるアイヌへの相談はまったくなかった。一方的にあとから来た和人やロシア人の国家が勝手に話し合って決めたことである。
言うまでもなく、クナシリ・エトロフをはじめ、ウルップなど、千島の島々の名前はほとんどすべてアイヌ語が由来である。残念なことに、政府の発行したパンフレットなどには、そのことはまず記載されていない。
南千島は日本の領土として、ロシアとの話し合いの中で確定したものであるが、第2次大戦の末期に、ソビエトが日ソ不可侵条約を破棄して軍事侵攻し、南千島を占領した。
日本政府としては、これは不法占拠された土地として「北方領土」と呼び、ソビエト、そして現在のロシアに長年返還を求めている。

さて、日露通好条約以降、カラフトは先住民族の3民族およびあとから来た和人とロシア人などの諸民族の雑居の地となっていた。ところが、明治政府の成立後、日本とロシアで話し合い、国境を画定することになった。
交渉の結果締結されたのが、1875年の千島樺太交換条約である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%83%BB%E5%8D%83%E5%B3%B6%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%9D%A1%E7%B4%84

その結果、千島列島をすべて日本領とする代わりに、樺太全域をロシア領とした。こちらももちろん、アイヌをはじめとする先住民族にはまったく相談なしに行われたことであった。

その際、樺太に住んでいるアイヌの処遇をどうするかが日本政府にとって一つの問題になった。
条約の結果、樺太に住んでいる日本人(和人)についてはそのまま日本国籍のまま樺太に住み続けることが許されることになったが、先住民族については、樺太に住み続けるならばロシア国籍を取得しなければならず、日本国籍を選ぶならば樺太を離れ日本領土に移り住まなければならないということになった。
一応条文では国籍選択について3年の期限がつけられることになった。条約付録の第4条参照。
http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%A2%9D%E7%B4%84%E9%99%84%E9%8C%84

そこで樺太に住んでいたアイヌを日本側の北海道に移住させる計画が浮上した。

※新海智子さんのご指摘により、日露通好条約が締結された年の数字が間違っていたので修正しました。ありがとうございました。2017-7-16
posted by poronup at 08:08| 北海道 ☔| Comment(2) | 樺太アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
12段落目で、日露通好条約調印の年が1888年になっています。
安政元年12月21日は、西暦1855年2月7日かと思います。
Posted by 新海智子 at 2017年07月15日 12:15
ありがとうございます。
まったくおっしゃる通りです。うっかり打ち間違ったようです。
さっそく訂正させていただきます。
Posted by poronup at 2017年07月15日 23:25
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